弘治2(1556)年、織田信長の舅である斉藤道三は嫡男の義龍と対立した。原因は、道三が義龍よりも弟の龍重や龍定を可愛がり、義龍の廃嫡を考えたからだと言われている。義龍は弟2人を殺害して父・道三に謀反を起こしたのだ。
義龍の兵1万7000人に対し、道三は7000人の兵しか集められず、長良川の戦いで戦死した。道三は義龍の采配ぶりを見て、義龍が無能ではないことを悟り、後悔したという。
道三の死により、大きな後ろ盾を失った織田信長は窮地に立たされることとなる。さらに、織田信長の叔母の嫁ぎ先である岩倉城の織田信安が息子の信賢に追放されてしまったのだ。信賢も義龍と同様、父に廃嫡されそうになり、先手を打って乳を追放したのである。そして、信賢は義龍と手を組み、織田信長に対抗してきたのである。
追放された織田信安は、織田信長の祖父・信定の兄ということもあり、織田弾正忠家と織田伊勢守家の関係は比較的友好であった。少年時代の織田信長は信安夫妻の許をたびたび訪れたという。しかし、信賢の反乱により織田伊勢守家を敵に回さなければならなくなった。
織田信長は妹を犬山城主の織田信清に嫁がせ味方につけて、永禄元(1558)年7月12日、信清とともに岩倉城の北に布陣し信賢の軍勢を迎え討った。織田信長の軍は2000人、信賢の軍は3000人。開戦当初は互角であったが、信清の軍1000人が駆けつけると形成が逆転。信賢軍は壊滅状態となり岩倉城へ退却した。このときの信賢軍の死者は1250人に達したといわれている。
2.岩倉城落城、尾張の統一
翌永禄2(1559)年、織田信長は岩倉城を包囲。周囲を木の柵で囲い、城中の兵が逃げられないようにしたのだ。この包囲戦術は数か月に及び、城の東を流れる五条川からも水を引けなくしたため、岩倉城内は兵糧の欠乏が目立ってきた。また、この包囲により排泄物が城内に溜まり、たちまち不衛生となった。
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