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2008年09月15日

尾張の統一

1.浮野の戦い

弘治2(1556)年、織田信長の舅である斉藤道三は嫡男の義龍と対立した。原因は、道三が義龍よりも弟の龍重や龍定を可愛がり、義龍の廃嫡を考えたからだと言われている。義龍は弟2人を殺害して父・道三に謀反を起こしたのだ。

義龍の兵1万7000人に対し、道三は7000人の兵しか集められず、長良川の戦いで戦死した。道三は義龍の采配ぶりを見て、義龍が無能ではないことを悟り、後悔したという。

道三の死により、大きな後ろ盾を失った織田信長は窮地に立たされることとなる。さらに、織田信長の叔母の嫁ぎ先である岩倉城の織田信安が息子の信賢に追放されてしまったのだ。信賢も義龍と同様、父に廃嫡されそうになり、先手を打って乳を追放したのである。そして、信賢は義龍と手を組み、織田信長に対抗してきたのである。

追放された織田信安は、織田信長の祖父・信定の兄ということもあり、織田弾正忠家と織田伊勢守家の関係は比較的友好であった。少年時代の織田信長は信安夫妻の許をたびたび訪れたという。しかし、信賢の反乱により織田伊勢守家を敵に回さなければならなくなった。

織田信長は妹を犬山城主の織田信清に嫁がせ味方につけて、永禄元(1558)年7月12日、信清とともに岩倉城の北に布陣し信賢の軍勢を迎え討った。織田信長の軍は2000人、信賢の軍は3000人。開戦当初は互角であったが、信清の軍1000人が駆けつけると形成が逆転。信賢軍は壊滅状態となり岩倉城へ退却した。このときの信賢軍の死者は1250人に達したといわれている。


2.岩倉城落城、尾張の統一

翌永禄2(1559)年、織田信長は岩倉城を包囲。周囲を木の柵で囲い、城中の兵が逃げられないようにしたのだ。この包囲戦術は数か月に及び、城の東を流れる五条川からも水を引けなくしたため、岩倉城内は兵糧の欠乏が目立ってきた。また、この包囲により排泄物が城内に溜まり、たちまち不衛生となった。

タグ:織田信長
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続発する謀反

1.謀反者を許す織田信長

織田信長は稲生の戦いで、那古屋城の弟・信行、柴田勝家、佐久間盛重、林佐渡守、林美作守などの軍勢を撃破した。末守城に退却した信行は、城の守りを固め、織田信長との戦いに備えていた。

ここで、織田信長は弟・信行に従っていた柴田勝家の謀反を許し、清州城にて召し抱えたのだ。勝家は武勇で名を挙げた名将であったため、織田家に必要と感じたのであろう。このあたりは、中国三国時代の曹操が有能な者であれば経歴や家柄を問わず抜擢したことに酷似している。これが織田家の発展に欠かせない考えだったのであろう。

さらに、筆頭家老でありながらも謀反を起こした林佐渡守、林美作守も許し、引き続き筆頭家老として召し抱えた。同様に佐久間一族も許され織田信長に仕えることとなったのだ。

後年の、比叡山延暦寺の焼き打ちや、長島一向一揆の殲滅戦など、冷徹なイメージのある織田信長だが、味方が少なかった当時は、1人でも多くの味方を作ることが課題だったのであろう。敵であった者でも、戦うことによって感服させ信頼を得ることが必要だったのと思われる。


2.弟・信行、再度の謀反

稲生の戦いの原因を作った弟・信行は、母・土田御前の懇願もあり謀反を許された。しかし、一度は織田家の後継者と担がれた思いが再燃したのだろうか、再び兄・織田信長に謀反を起こそうと計画したのだ。

信行は末守城の北に龍泉寺城(りゅうせんじじょう)を築き、ここを再挙の足掛かりとした。さらに、先年の稲生の戦いでともに戦った柴田勝家を抱き込もうとしていた。しかし、勝家がこの計画を織田信長に伝えたため計画は露見。

信行は尾張上四郡を治める織田伊勢守家当主。織田信賢を手を組み、織田信長が支配する清洲城の直轄地に手を出す行動に及ぶ。ここでも、母・土田御前は信行を許すように懇願するが、再度の謀反に織田信長は聞く耳を持たず、信行の殺害を計画する。

織田信長は、仮病と偽り信行と母・土田御前に使者を出し、清洲城に見舞いに来るように仕向けた。信行と母・土田御前は清州城を訪れるが、信行は清州城中の北矢倉で織田信長の命を受けた河尻秀隆に命を奪われたのだった。

こうして、織田信長の最も大きな抵抗勢力だった信行勢は一掃されたのだった。
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2008年09月13日

母・土田御前、弟・信行の人物

1.織田信長の母・土田御前(どたごぜん・つちだごぜん)の人物

織田信長の母である土田御前は、織田信秀の正室とされており、信長の他に、信行、秀孝、信包、お市の母とされている。出身地は2説あり、一つは尾張国海東郡土田郷(現在の西春日井郡清洲町)の土田下総守政久(つちだしもうさのかみまさひさ)の娘である説。もう一つは、美濃国可児郡土田の出身である説。「土田」の読み方であるが、前者であれば「つちだ」、後者であれば「どた」ということになる。いずれにしても、気丈な性格で、美貌であったという。

夫・信秀の死後、信行と共に末森城に住むこととなった。「うつけ者」と呼ばれた織田信長を嫌い、品行方正な信行を寵愛したとされている。信行が兄・織田信長に謀反を起こし敗れた時は、織田信長に信行の助命を嘆願し一度は許された。しかし、信行は再び謀反を起こし敗れ織田信長に命を奪われることとなる。

本能寺の変後は、信雄(のぶかつ:織田信長の次男)の許で暮らし、「大方殿様」と呼ばれ、化粧料を与えられていた模様。文禄元(1590)年、信雄が秀吉に改易された後、伊勢安濃津の信包(のぶかね:織田信長の弟)のもとに引き取られ、文禄3(1594)年、1月7日、亡くなった。墓所は三重県津市の四天王寺に存在する。


2.織田信長の弟・信行(のぶゆき)の人物

信行は、天文5(1536)年、織田信秀の四男として生まれた。母は上記の土田御前であるから、織田信長の同母弟ということになる。太田牛一が綴った「信長公記」によると、信行は「折目高なる肩衣・袴めし候て、あるべきごとくの御沙汰なり。」と評されており、織田信長とは対照的であったようだ。

弘治元(1555)年6月、守山城の織田秀俊が謀反を起こすが失敗。
信行は、その後の守山城主となる。ここで信行は、林秀貞、林通具、柴田勝家らを味方にし、織田信長に対して謀反を起こす。しかし、8月24日、6000の兵を率いた柴田勝家が稲生で敗れ、次いで林通具が稲生において織田信長に討たれた。敗れた信行は末森城へ、林秀貞は那古屋城へ、それぞれ退却した。信行は母・土田御前の助命嘆願により、林秀貞、柴田勝家と共に許された。

しかし、弘治3(1557)年、信行は再び謀反を起こす。今度は岩倉城の織田信安を抱き込んでのものだった。先年の稲生の戦いで織田信長の戦いぶりに感服した柴田勝家は、このことを織田信長に知らせ、信行の暗殺を計画。病気と偽り、信行を清州城に呼び寄せ、河尻秀隆が信行の命を奪ったのだった。

posted by あけぼの at 02:56| Comment(0) | 2章 織田信長の尾張統一 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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